シェリルはどうしてこんなにも魅力的なキャラになったのか

t-akata2009-12-07

さんざ絶賛している劇場版マクロスFですが、その評価の一端に「シェリルを魅力的に描いた」点が大きいんじゃないかと振り返っている今日この頃です。
全編がシェリルの物語なのではと思わせるほど、シェリルへのフォーカス、掘り下げが為され、「いいところ」でシェリルの歌が流れる。
「後編でランカを立たせるためのシナリオ上の仕掛けだろう」とか、そう感じた人もいるかと思いますが、今回の映画では、客観的に見てもシェリルが「正ヒロイン」のポジションを固めたように見えたし、「シェリル派」に傾いた人も少なくないだろう。
映画を観終わった後、我々がシェリルに対して覚えた感情を「全ては河森の仕組んだことだったんだよ!」で片付けられたのでは、まぁ真実そうなのだろうけど、あまりにもつまらない。
っていうか、もっと語らせてほしい。


というわけで、独自の分析に基づき、シェリルの魅力を解体してゆきたいとおもいます。
参考文献は、主に「オトナアニメ」、「CONTINUE」、「劇場版マクロスFパンフレット」に掲載されていた河森正治のインタビューです。
…結局河森だのみかよ。



「中の人」が作り上げたマクロスF


シェリルの魅力を決定づけた最大の要因は、シェリルの歌パートを担当するMay’nの歌声によるところが大きい。
というか、こんな話を今さらされてもしょうがないと思うけど、「歌」が物語のキーとなるマクロスシリーズにとって、「歌パート担当」というポジションは、単なる「タイアップ」以上の重要な役割を担わされているのだ。
吉野弘幸氏(脚本)のインタビューによれば、初期案では「男2人と女1人(ランカ)の三角関係」だったという。
シェリル(の原型)は、歌手を目指すランカの憧れの存在であるという点は共通だが、当初はストーリーに絡むような存在ではなかったそうだ。
そこから「男1人に歌姫2人」という形になってからも、「いい歌手が見つからなかったら、ここまでのキャラクターにはなっていなかった」と河森正治は語っている。


かくして抜擢されたMay’nの歌手としての実力は、もはやここで敢えて語るべくもないが、その類い稀なる才能が「ライブ感覚」(最終的な結末をハッキリと決めず、作りながら先のストーリーを作っていく方法)で作られるマクロスFの上に乗ることで、シェリルというキャラの内面だけでなく、ストーリーにまで影響を及ぼしてゆくことになる。
結末を決めずに進めてゆく「ライブ感覚」は、「国民的バイク乗りヒーロー(平成版)」や「国民的戦争ロボットアニメ(種2期)」に見られるような、シナリオ上の露骨な破たんを露呈して、目も当てられないような惨状を引き起こす場合も少なくないため、アニメ・特撮ファンにとっては心象のよろしくない作り方だが、制作者のアイデアをクイックに反映できるという点では優れている。
河森氏は「May’nがライブ前に一人で歌っている姿を見て、一度決まっていたTV版15話のシナリオに、シェリルが歌うシーンを追加した」と語っていた(だいぶ端折って引用しました)。
具体的に影響を及ぼした点はこれぐらいだが、ここまでの才能の持ち主が、ベテランクリエーターの創作意欲を刺激しないわけがない。
あくまで憶測だが、スタッフの中に「もっとMay’nの歌を使いたい」という「欲」が生まれて、それがどんどんシェリルのシーンを増やし、メインストーリーに絡ませてゆくことの一因になったのではなかろうか。
現に、当初「完成された歌手」として登場したはずのシェリルは、物語の後半でもう一段「成長」を遂げた上に、V型感染症を克服して真の「歌姫」へと、ランカともに到達する。
それもひとえにMay’nのアーティストとしての幅の広さによるもの(あと、それを引き出す菅野よう子)だろうし、それを生かさずにはいられなかったスタッフの「欲」の所産だと見ることができる。


そう、May'nの歌は、シェリルというキャラクターだけでなく、シェリルが活躍する舞台そのもの、マクロスFという物語そのものを作ってしまったのだ。



以上、好き勝手に妄想を語らせていただきましたが、正直なところ、真相はどうだっていい。
全て仕組まれたことだっていい。
これだけの妄想を広げさせてくれるぐらい、May’nの歌はすごいんだっていうことです。


なんていうかもう理屈なんてくだらねぇ。
May’nの歌を訊けっ!!」