前島賢「セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史」を読んで

t-akata2010-02-27

さて、読書感想文的なタイトルを付けてはみたものの、本の内容にはほとんど触れずに終わるかも知れない。
と云うのも、私がこの本を手に取った主な理由は、本書で語られる「セカイ系」について知りたかったからではないからだ。単純に、自分と同世代で(というかこの人同い年)、かつオタクとしてエヴァブームを体験し、その後もオタクを続けている著者が、一体どのようにしてエヴァを受け止め、どのようにしてその後のオタク文化の中を歩んできたのか、そしてそれをどう捉えているのか、率直に知りたかったというのが第一の動機だ。


 私自身、オタクを自負する人間だが、本書で挙げられている「セカイ系」を代表する作品や、その周辺に位置する作品群には、残念ながらほとんど触れたことがない。そのため、「セカイ系」について知りたいという意識自体が希薄であり、オタク文化のメインストリームからは外れており、本書のターゲットとする類の人間ではないかも知れない。まぁ、著者からして「セカイ系」について「それはもう語られ尽くされたので、そこから生まれる新しいものをもっと見たい」という態度を取っていると受け取ったので、こういう態度で読んでもいいんじゃないでしょうか。


 と云うわけで、ここからは、この本を読んだ感想というか、私自身のオタク史を振り返りつつ、記憶を整理しつつ、本書の内容を引用しつつ、語ってゆこうと思う。まあそもそも、この「激しい一人語り」が「セカイ系」の構成要素に他ならないわけだが。


 エヴァ以前。私は一人の平凡なオタク中学生だった。幼少の頃見始めた「戦隊シリーズ」を保育園や小学校と同時には卒業せず、むしろヒーローものやロボットアニメへの熱を加速させ、そこに「ときめきメモリアル」に端を発するギャルゲー、美少女ものへの興味を膨らませていた思春期のオタクとしてエヴァと出会った。
著者はエヴァの作品性について「前半」と「後半」とで区別している。明確な話数については特に言及されていない(というかそれを定義することは目的ではない)が、純粋に「GAINAXが作るロボットアニメ」としての「前半」と、作品が後に「セカイ系」と呼ばれる文体に傾倒してくる「後半」とで分けられている。「劇場版」もこちらに区分される。私のエヴァに対するリアクションとしては、「前半」はごく普通に「ロボットアニメ」として受け止めていたが、「後半」は「なんだろう?全然分からないけど、次見たら分かるかも。」という体で、さんざ引きつけられた挙句、「強烈に裏切られる」という流れになる。
この「強烈に裏切られる」というのが、後から知る世代には分からないかも知れないが、TVシリーズの最終回を咀嚼しきれず、煮え切らないままでいたところに「本当の最終回を劇場版でやります!」という発表が舞い込み、これで作品のすべてのモヤモヤが解消されると「二年も」期待しつづけた結果があの「キモチワルイ」だったのだから、当時の自分にしてみたら相当なショックだった。
細かく追っていくと、あくまでロボットアニメだった「前半」は、私は「嗜む」という態度で臨んでいた。あくまで紳士というか、客観的視点を持つオタクとして、(中学生なりに)設定を称賛したり、パロディ的な引用を笑ってみたりという態度だ。だが「後半」に入ってゆくにつれ、シンジくんと自分を重ねるようになり、同一化していくようになる。ただし、このような「主人公に自分を重ねる」という態度は、当時の私は「子供っぽくて恥ずかしいもの」と捉えていたため、表立って「シンジくんは俺だ」という態度は出せず、あくまで物語の謎を解明せんとする一人のオタクであろうとしていた。そういう狙いで作られていたかどうかは分からないが、ともかくも、自分の中で「物語の謎が明かされる」ことで「シンジくん=俺の問題が解決する」と内心信じていたため、劇場版で「謎は明かされませんでした」うえに、「(お前見たいなオタクは)キモチワルイ」と、二重に否定を突き付けられ、まさしく私は打ちのめされ、しばらく劇場の外で呆然としているしかなかった。あの時の風景は、なぜだか今もはっきりと覚えている。映画の結末を受け止めきれないままフラフラと外に出ると、昼どきの商店街は行き交う人であふれていた。


映画を観る前と何ら変わりないはずの風景。
だけど私の周りを取り巻いているのは「人ゴミ」ではなく、
はっきりと「顔」を持っていて、
明確な「行き先」をもって歩いている人間で、
その一人ひとりに息づかいがあって、
そしてその向こう側には…「オタク、キモチワルイ」があるんだ。


映画を観た後だというのに、通いつめていたアニメショップにも寄らずに帰った私。
それから高校を卒業するまではオタク文化にとどまり続けるも、「シンジくんは俺だ」という主張は相変わらず押し込め続け、大学進学を機に、一旦オタク文化に傾倒する度合いを弱める。庵野秀明からの「現実をみろ!」というメッセージをそのまま受け入れたような感じで、教育者を志してみたり、学生運動的な分野に傾倒してみたり、部活動に打ち込んでみたり、恋愛をしてみたり、大学院に進学してみたり。
これこそ、まんまと作品をダイレクトに受け止めてしまった典型なのかも知れない。ま、エヴァがすべてでは無かったにしても、相対的にアニメに割く時間が減った分、他の分野に充てる時間が増えたのも事実だし、これらに打ち込んでた間はそれなりに真剣だったし、それを一生のものとする気持ちが確かにあったので、今の自分を形作る糧となっていると思いたい。
セカイ系」が隆盛していた期間は、「エヴァにショックを受けてフラフラしていた」期間だったので、「セカイ系」をめぐる一連の作品群は、私にとっては興味の範疇外だった。というか、エヴァを飲み込みきれていないうちに似たような感じの作品なんて受け入れられないというのが本当のところだったと思う。
極端な見方をすれば、「エヴァという問題を解決しない限り、私は(アニメの)世界に再び回帰することができない」と認識していた。自身そのものが「セカイ系」だったのだ。
…極論とはいえ痛々しい人生じゃないか。俺の10年。


 そういう非常に狭い範囲内での紆余曲折を経て、「結局は戻って来ちゃうんだよね♪」というのが現在の私であり、その点に関しては著者とあまり認識が違っていない所だと思う。


 改めて振り返ってみると、私が受けたエヴァへのショックと現在に至るまでの過程は、「それまで小説などの『自意識について語る分野』を一切知らなかった思春期の少年が、ある日突然、何の前触れもなく『それ』を突き付けられ、消化しきれないまま自分なりの答えを探さざるを得なかった。」ということだろうか。そうしてたどり着いたのが結局いま居るところである。


 エヴァで迷い、結果オタク文化から離れていた期間を「もったいない」と思わないと言えば嘘だが、その離れる期間を与えてくれたきっかけとしては大いに認めておきたい。その上で、この本は、もう「エヴァを引用して現実を都合よく解釈しようとしたりしない」し、「新ヱヴァにあの頃求めた答えを求めない」という、おぼろげだった現在の私の認識を明文化させてくれました。


 やっぱり「読書感想文」というより「読んだ反応」そのものになってしまった。これは本書がオタク文化における「セカイ系」の隆盛がエヴァに端を発するという見解のもと(誰も異論は無いだろうけど)で分析されており、オタク史をエヴァからたどっているため、自身の体験を強く想起してしまうからだろう。もちろん、著者と同世代で同じくエヴァブームを味わった人間にしか共感できないという内容の本ではない。単に私がエヴァを観て一人で悶々としていたオタクだったからでしかない。そういう個人的な思いを抜きにすれば、現在のオタク文化を分析した読める新書だと思うので、「セカイ系」という単語に反応した人は、読んでみたらいいんじゃないでしょうか。と思います。


 そして最後に、著者の前島先生、こんな、あなたの言いたかったことと全然違う受け止め方されてて迷惑かも知れないけど、ごめんなさい、つい、同い年だっていうのが嬉しくて…オタクの友達すら少なかったんです、私。
これからもがんばってください。