「ハートキャッチプリキュア!」は「原点回帰」と言っていいのか

t-akata2010-03-01

 シリーズ7作を数え、女児向け番組の定番シリーズとしての地位を不動のものとしている「プリキュア」。最新作は初期メンバーを初期シリーズ同様「2人」と設定し、「原点回帰」という印象を受ける(というか、スタッフがそう言っている)。
では第一作と大して変わらないのを「水樹奈々起用!」といったトピックスで盛り上げているだけかというと決してそうではない。これまでのシリーズに無い新しい試みが盛り込まれている点を、私は指摘しておきたい。


 と、その前に、作画について。
 本シリーズのキャラクターデザインは、「おジャ魔女どれみ」を担当していた人なので、この絵柄について評価の分かれる部分もあるかも知れないが、個人的には、女の子が元気いっぱいに動き回る作品にマッチしていると思う。それどころか、アクションシーンなどで見せるキャラの極端なパースやカメラアングルによる「変形」を違和感なくカットの中に成立させており、このような大胆な作画演出は、「聖闘士星矢」などに見られる東映アニメーションの真骨頂だと思う。この独自の作画法によって生まれる躍動感により、今回のプリキュアではかなりヒーロー性が加味されたバトルシーンに仕上がっている。この点に関しては、おそらく京都アニメーションにもシャフトにも負けないクオリティだと言って差し支えないだろう。あとは、1年間という期間内で息切れしないことを願うだけだ。


 作画の一新については初めてのことではないので、「新しい試み」と指摘するにはいささか力不足だ。
 では何かと言うと、それは1話ごとのシナリオの基礎「ドラマツルギー」だ。具体的に言うと今回の「敵」の設定である。今回の敵「砂漠の使徒」は、人々の心にある「心の花」を枯れさせ、世界を征服するのが目的だが、その方法が「枯れかかっている心の花を怪物に変えて暴れさせる」というものだ。
私はこれを「今回は一話ごとのシナリオに注力する」宣言だと受け取った。
「心の花が枯れかかっている」状態というのは、要するに心が弱っている状態であり、その心を怪物にされてしまうのだ。そして「心の花」を奪われた人間は、小さな玉の中に閉じ込められ、そのまま「心の花」が枯れてしまうと、二度と元には戻れない。つまり、「怪物は人の心から生まれ、それを倒さないと助からない」というのが、今回の基本設定だ。少し前の作品で言うと「勇者王ガオガイガー」の「ゾンダー」と似た設定を採用している。
 これは、前作までの怪物の設定とは全く異なる。これまでのプリキュアの怪物は、大半が無機物か動物に取り付いて変化したもので、敵の幹部が使役する「道具」としての側面が強く、プリキュア達にとっては「障害」以上の意味合いは持たされていないため、倒すこと自体が目的でないケースもある。しかし「ハートキャッチプリキュア!」では、「砂漠の使徒」が目的を果たすためには怪物を作らなければならず、それを阻止し、かつ「心の花」を奪われた人を救うためには、プリキュアは怪物を倒さなくてはならない。怪物が劇中において重要な役割を担わされているという点で、前作までとは大きく異なっているのだ。
今までのプリキュアでは、プリキュアの周囲で起こる「事件」を、敵側の起こす「事件」と直接的に結びつける必要がなく、また戦闘そのものにも必然性を持たせる必要が無かった。それゆえに、シナリオ作成の自由度は高かっただろうが、プリキュア側のストーリーと敵側の起こす事件が同時に起こる必然性が薄かった。「友達とケンカしているのに敵が攻めてきた」みたいな感じだ。
しかし、この設定を採用することにより、怪物が誕生する「事件」そのものを物語の中心に置くことができ、事件を解決することがプリキュアの目的に則したものになり、またプリキュアでなければ解決できないため、プリキュアが積極的に物語に参加する必然性が与えられる。
 これにより、作品の中でより踏み込んだテーマを扱う下地が整備されたと私は感じた。
 登場人物の引き起こす「事件」がプリキュアの力によってしか解決できないという設定は、上手く作れば一話完結型の良質なストーリーを提供することができるだろう。しかし同時に、シナリオ上の制約が増えるというリスクも当然背負わされていることも忘れてはならない。
 ここからどのようにこれらの素材を料理してくれるのかは、まだ何とも言えないし、1年間も続くのだから「ハズレ」の回もあるだろう。だがこれまでのシリーズを上回ろうという気概を感じるのもまた確かである。
 シリーズ7作目にして新たなるフォーマットとなり得るか。
新生プリキュアは作画、キュアマリンの活躍ともども、目の離せない作品である。