アニメノチカラノイレドコロ

t-akata2010-03-06

2010年1月からテレビ東京とANIPLEXがタッグを組んで打ち出したオリジナル深夜アニメ枠「アニメノチカラ」。いわゆる「原作もの」が、コミックやゲームにとどまらず、ライトノベル作品にまで及んで隆盛しきった感を受ける昨今、あえてフルオリジナル作品を送り出そうという試みは評価したい。しかしながら、そこに込められた想いを見る側に伝えるためのハードルは、やはり「原作もの」よりも高いということを、自身で証明してしまった感がある。


アニメノチカラ第一弾として発表された「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」は、荒廃した世界に生きる少女の物語。
 一度は高度な文明を築いた人類が、戦争の末に一気に文明水準を後退させてしまった世界。主人公、空深カナタは、喇叭手になることを夢見て「タダで楽器の勉強ができるから」という理由で軍隊に入る。配属された第1121小隊は、「国境の監視」が主な任務であるとしつつも、その「国境」の先は戦争で荒れ果てた不毛の地。要するに閑職。そこで繰り広げられる少女たちの日常と成長が、本作の主題となっている。


 本作の見どころは、ヨーロッパ調の街並みを再現した美麗な世界観と、それを繊細に描き出すA-1picturesのアニメーション。実際にスペインの世界遺産をロケハンして描かれたという背景美術は、とても綺麗で、高い再現度を誇っている。そしてキャラクターたちも魅力的に描かれており、作画のクオリティも一定水準を保っている。毎回展開される物語も、少女たちの微細な心の動きにスポットを当てた秀逸なストーリーだ。
 だが(まだ放映中だけど)、全体的にある種の拭い切れない「違和感」が漂っているように感じられる。作画や音楽はどれも高いクオリティであるにもかかわらず、それをそのままのものとして受け容れきれない、感情移入することを拒む要因がある。それは「独特のヨーロッパ調の街並み」の中を「アニメチックな美少女」が生きていることであったり、「どこか遠くの世界」であるのに「日常」を描いていることであったり。要するに、個々ではよく作り込まれているにも関わらず、それが合わさったとき、どこか一体化しきれていないという印象を与えてしまっているというのがこの作品の「惜しい」ところだと思う。
 個々の構成要素の調和がとれていない、すなわち「不協和音」。
仮にも音楽を題材とした作品を語る上で、こう表現してしまうのは多少心苦しいが、それが一番しっくりきてしまうのが、何だか残念だ。
構成要素の「調和」という観点で作品を観た場合、やはり「原作もの」のアドバンテージは大きい。世に溢れる数多の作品たちには、その作品の数だけの「世界観」がある。それらの中から「アニメ化」に際して選び出されるということは、その「世界観」が一定の人々に認められたものであるという証左である。言ってみれば、アニメ化する時点で、「世界観」すなわち「構成要素の調和」という課題は、ある程度クリアされていると考えていいだろう。別の市場で一度試されたものなのだ。また、「原作」というのは、作り手にとって「教科書」であると同時に一つの「成功例」であるため、個々のスタッフが作品の全体像をイメージしやすく、原作をお手本とすることで、作品の仕上がりをブレにくくする軸でもある。
もちろん、原作があるということは、その存在自体がアニメ作品を縛り付ける強力な「枠」ともなるため、メリットばかりではないが、今回は「原作もの」でないがゆえの「弱さ」が出てしまった感が否めない。「原作」というガイドラインが存在しないがために、まとめることの難しさを示してしまったように思う。
また、「リアリティ溢れる背景上で動くアニメキャラ」という点では、同じような条件のアニメとして「けいおん!」やA-1Picturesの「かんなぎ」などが挙げられる。オリジナル作品では「東のエデン」がそうだろう。これらの作品と「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」の違いは何かと考えると、短絡的かも知れないが、一番大きいのは「舞台」だろう。上記の作品たちは「現代」を舞台としているのに対し、「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」は全く別の、架空の世界を舞台としている。「現代」、あるいは人類が経験した過去の年代を舞台とするならば、我々はそこに敷かれた設定を瞬時に把握することができる。対して、オリジナルの世界を舞台とすると、受け手の側は必然的に映像の中から情報を取り出して把握しなくてはならない。つまり、現代が舞台であれば、登場するキャラクターたちは「普通の人間」であり、背景に置いてある機械は一般的な「家電」であり、そうでない「魔法使い」や「巨大ロボット」は「異質なもの」として特に説明無く描き出すことができる。対して完全オリジナルの「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」で言えば、見る側は常に「この世界では何が“常識”で何がそうでないのか」を読み取り、意識しながら見なければならない。それが作品の主題であるならいいが、「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」はそちらにフォーカスした物語ではない。あくまでその世界観の中での「日常」を描き出そうとしている作品なのだ。この「日常」というのもまた難しい点で、例えば作品が「ロボットアニメ」だとか「魔法少女」だとか、そういったフォーマットの上、ストーリー上の明確な目的やゴールの示されたものであれば、まだ分かりやすいのだが、「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」は、現時点では喜劇で終わるのか悲劇で締めくくられるのか、我々には分からない。もちろんそれ自体も作品の楽しみ方の一つとなり得るが、1クールという短い期間で作品を「楽しもう」と思った時、作品を受容する態度を決める材料にはなりにくい。緻密に作り込まれていることが、画面の中に情報を溢れさせ、かえって混乱を招いているというのが全体的な感想だ。悪い言い方をすれば、個々では質の高い構成要素を散漫にバラ撒いて「さあ、どうぞお好きに受け取ってください」と、作り手側の「自由度」を受け手側にも押しつけているとも取れる。


概観すると、「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」という作品は、オリジナルであるという利点を生かしているという作品ではなく、「原作が無い」という弱点を克服しきれていない作品のように思う。何もかも徹底した「オリジナル」を作り上げることは、価値のある試みだと思うが、1クールという短い期間の深夜アニメに求められるのは、やはり「分かりやすさ」だろう。その点で言えば、発表される「枠」と作品の立ち位置が一致していたとは言い難い。作品の内容が魅力的なだけに、「見せ方」が少しずれてしまった感があるのは、本当に「惜しい」ところだ。
ともあれ、まだまだ「アニメノチカラ」の方向性について試行錯誤している段階だろうし、全く新しい「枠」に、新しい「作品」を投じるという挑戦の「第一弾」ということで、いくらかの「気負い」があったのかもしれない。クリエイターたちが持てる力を存分に発揮する場があるというのは、恵まれたことなのかも知れないが、アニメには「手抜き」という魅力もあるということも忘れてほしくない。
アニメノチカラ」第一弾は、作品そのものの評価以上に、いろいろと得られるものが大きいと思うので、一人のアニメファンとしては、今後の展開に生かしてもらいたいと願うばかりです。