マクロス7

t-akata2010-03-28

初代マクロスより35年後の世界。謎の生命体「プロトデビルン」の襲撃を受けた宇宙移民船団「マクロス7」の人々が、その脅威に立ち向かう様子を描いた物語。
 主人公「熱気バサラ」は、ロックバンド「FIRE BOMBER」のボーカル・ギタリストとして活動しているが、ひとたび戦闘が起こると、どこから手に入れたのか最新式のバルキリーを駆り、先頭のド真ん中に飛び込んで、敵味方構わず自分の歌を聴かせるという、常識的には理解しがたい行動をとる、荒唐無稽な人物だ。
 「歌で戦争を終わらせたリン・ミンメイの真似のつもりか」「単なるバンドの売名行為だ」などと言われながらも戦場に出続けていた彼の歌には、やがてプロトデビルンを撃退する効果があることが明らかになり、統合軍の民間協力隊「サウンドフォース」に組み込まれる。しかしバサラは「あいつらに俺の歌を聴かせるんだ」という自らの歌に対するスタンスを曲げようとせず、事あるごとに上層部と衝突する。


リアル指向がウリの一つだったSFロボットアニメシリーズにおいて、「戦わない」、「真っ赤なボディカラーにヒロイックなシルエット、おまけに顔まであるバルキリー」「戦闘に対して消極的どころか嫌っている主人公」という諸々の設定は、シリーズの中でも異彩を放っている。


そういった突飛な設定と強烈なキャラクターたちの印象が先行しがちな本作ではあるが、全シリーズ中で最も「歌」そのものに強力な力を持たせた作品がこのマクロス7だろう。
「歌」が物語の中で重要な役割を果たすという点では他のシリーズ作品と変わりない。
しかし、他のシリーズでは「歌」は単なる「歌」でしかなく、それに別の要素を付与された上で物語の中で役割を果たしているのに対し、マクロス7での「歌」は、純粋に「歌だからこそここまでのことができるのだ」と描かれている。
つまり、「ミンメイの歌がゼントラーディの心に届いたのは、ゼントラーディがそれまで文化を持っていなかったから、それがカルチャーショックとなり、和平へのきっかけとなった」とか、「ランカの歌にはフォールド波が含まれていて、それがバジュラに伝わる」など、詳細な理由付けがされた上で「歌」が物語の鍵として機能していたのに対し、マクロス7での「歌」は、「なぜ人間だけでなく、あらゆる生命の心(?)に伝わるのか?」という問いに対する明確な解答や設定は付与されていない。ただバサラが「歌はそういうものだ」と信じて疑わず、何度もトライした上でそれを成すという一部始終を丁寧に描くことでその主題を表現している。
(補足しておくと、「歌エネルギー」は、プロトデビルン側から「アニマスピリチア」と呼ばれて特別視されているバサラにしか無い力だと思われがちだが、劇中ではミレーヌの歌声や、果てはビヒーダのドラムにまで「有る」と描写されているため、バサラの持つ素質がずば抜けているだけで、普遍的に存在するエネルギーであると考えることができる)


 ここから先は推測の領域だが、バサラが歌ひとつで何もかもに立ち向かっていく様は、初代マクロスのTV版第3クールへのアンサーなのではないだろうか。
 初代マクロスの第3クールでは、ミンメイの歌によって人類とゼントラーディとの間には和平が結ばれているが、それを認めないゼントラーディの残党が各地で戦闘を起こしている様子が描かれる。それらを扇動するカムジンは、歌で分かり合おうとするミンメイたちを「何が文化だ」とあざ笑う。その後、カムジンは統合軍に特攻をかけ、物語は「やはりミンメイの歌は単なる歌でしかなかったのか」という後味の悪い問いを残して終わる。
 それに対する回答を、4クールという時間をかけて丁寧に(長すぎるという印象も無くは無いけど)掘り下げたのがマクロス7だったのではなかろうか。「歌にハートを込めれば伝わるんだ」という、ありきたりなメッセージは、バサラという、素質と信念を併せ持ったキャラクターと、生命エネルギーを糧とするプロトデビルンが対峙して初めて具現化されるのだ。その命題を描き切った物語としても語られていいんじゃないだろうか。


 まぁ、その辺の難しい分析を抜きにしても、己の信じた道をただひたすらに貫き通すバサラの破天荒な生き方は、観ていて胸のすくものがある。なかなか進展しない物語に多少もどかしさを覚えることもあるだろうが、アニメ史上に残る空前にして絶後な主人公「熱気バサラ」の生き様を、しかと見届けていただきたい。